2016年8月25日 火曜日

姫路城

 現在の姫路城は池田輝政によるもので、関ヶ原の戦いの翌年にあたる1601年(慶長6年)から8年の歳月を費やして、豊臣秀吉が1580年に築いた三層の城を取り壊して5層7階の天守に大改修した。1618年には西の丸が整備されて全容がほぼ完成した。度重なる大修理を経て、400年以上経った今でも築城当時の美しい姿を残している。ちなみに平成の大修理(2009-2015年)は、総工費24億円で、関わった職人の数は延べ1万5千人と言われている。

 白漆喰総塗籠造りの鮮やかな白壁と、大天守と3つの小天守が渡櫓で連結された連立式天守を特徴とし、要塞としてあらゆる部分に精巧な意匠と工夫が凝らされている。内曲輪(うちぐるわ)を含む城全体の城郭建築もよく保存されており、築城時の様式をほぼ完全に伝えていることから、1931年(昭和6年)には国宝に、1993年(平成5年)にはユネスコの世界文化遺産(法隆寺と並び日本初)に登録されている。

 日本に現存する12天守の一つにして屈指の名城であり、白い城壁の美しさから「白鷺城」の愛称で親しまれている。

所在地  兵庫県姫路市本町68
観覧情報  入城料 大人 1,000円 / 開城時間 9:00-17:00 (4/27-8/31) /
備考  通称「白鷺城」 / 国宝(大小天守と渡櫓等8棟) / ユネスコ世界遺産

7:25 出雲大社を後にして姫路市へ向かう。米子自動車道から大山が見えた。

11:15 姫路城の大手門駐車場に到着。

炎天下を姫路城へ向かう。城まわりの歩道はとても広かった。

内堀に架かる桜門橋を渡る。橋は2007年(平成19年)に復元されたもので、幅7m、長さ22mある。

内堀では復元された江戸時代の和船「はりま」が旅客運航しており、船上から城を眺めることができる。乗船料は大人千円。

橋の上から姫路城の天守閣が見えた。

1938年(昭和13年)の再建の大手門へ。平日なのに観光客が多くて驚いた。さすが世界遺産です。

大手門は新しく作られた高麗門で、江戸時代の門とはまったく異なる。本来は城内で最も格調高く厳重な三重の城門だったらしい。

内側からみた高麗門。切妻屋根の架けた控え柱が恰好よい。

大手門をくぐると広大な三の丸広場に出る。正面には姫路城。門を入ってもまだ随分天守閣が遠いと感じた。

三の丸広場の向こうに西の丸と大天守。ちなみに三の丸広場の大部分は芝の養生中らしく、立入禁止になっていた。

売店で案内図をもらって入場ゲートへ。外国の方や家族連れが多かった。

入場料金(大人1,000円)を払って「菱の門」へ。

菱の門は、三の丸から二の丸へと通じる大手口を固めており、城内にある21の門の中で最も大きい。門柱の上部を貫く冠木(かぶき)に菱の紋が打たれているのが名前の由来。格子窓や釣鐘型の火灯窓(かとうまど)が格調高い、華麗な桃山建築の櫓門である。

菱の門から眺めた大天守。

菱の門をくぐると、すぐ右手に三国堀がある。籠城時に備えた貯水池で、池田輝政が姫路城を改築した折、播磨、淡路、備前の三ヵ国の人夫によって築かれたことが名前の由来と云われる。池越しに望む天守閣がまた素晴らしい。

西の丸は後にして先に天守閣へ向かう。最初に石垣と塀に囲まれた小さな高麗門「いの門」をくぐる。

次は「ろの門」。「い」と「ろ」の門によって二の丸の下の段が護られている。

ろの門をくぐるって右へ折れると正面東側に天守が見える。

緩い階段を上った先に、二の丸上段の入口となる強固な櫓門「はの門」がある。右の塀には△や□の鉄砲狭間や矢狭間が穿たれている。ちなみにここは「暴れん坊将軍」のロケによく利用されたので「将軍坂」と呼ばれている。

はの門をくぐって東側へ進むと天守が見えた。右手前に西小天守、左に乾小天守(いぬいこてんしゅ)、中央奥に大天守。

突き当たりを左(北西側)へ折れると城内屈指の防御力を誇る櫓門「にの門」。にの門内部は低い天井を曲がりながら階段を上る構造で、しかも敵は上から槍を突き立てられることになる。ここを破られると落城は時間の問題。(門の中の写真を撮り忘れたのが残念)

にの門をくぐって西北腰曲輪(にしきたこしぐるわ)に入ると、いよいよ天守群が目の前に迫ってくる。

にの門同様、総鉄板張りの「ほの門」。

狭い埋門(うずみもん)で、敵が迫った時は石などですぐ通路をふさぐことができる。

ほの門をくぐったところから見上げた乾小天守。天守台の北西(乾の方角)に位置するため、乾小天守と呼ばれる。石落としがよく分かる。

次は「水の一門」。棟門という両側の鏡柱に冠木を渡して切妻屋根をかけただけの簡素な形式。右に見えるのは油壁。

「水の二門」も棟門。水の一門から少し下りになっており、天守へ向かう敵を攪乱する狙いがあるらしい。

小さい門は敵の侵攻を遅らせるためであり、頭上の小天守、渡櫓から飛び道具で敵を狙うようになっている。

「水の三門」はさらに小さい。扉の横幅は150cmほどで、高さも身をかがめるほど低い。ここも埋門で簡単に石でふさげる造りになっている。

水の三門を入るとすぐに左折して階段となる。さらに突き当りを右に折れると「水の四門」。門に向かうと、背後の西小天守から攻撃を受けることになる。

水の四門をくぐる。出て左へUターンすると、やっと天守エリアへの入口である「水の五門」となる。

大天守1階。中は土足厳禁なので、履き物は備え付けの袋に入れて自分で持ち運ぶ。

1階窓から眺めた北側。ちなみに「水の六門」は石垣についた内部扉のようで、門だと気づかないまま天守の中へ入った。

大天守1階武者走り。鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が、壁に数え切れないほど並んでいた。

頭上に並ぶ太い梁に思わず目を奪われた。

大天守2階内陣の様子。前日に訪れた松江城と比較するとかなり広いという印象を受けた。

大天守3階の東大柱。城を支える通し柱(24.6m)で、築城時に播州の山林から切り出された樅と云われる。昭和の大修理の際、根元5.4mを台湾檜で根継ぎされている。

3階から4階の間にある踊り場へ上がる。手すりの曲線がとてもよい感じ。ちなみに3階は四隅に武者隠しが設置されている。

3階・4階は見所が多いのだが、早く天守の上りたくてどんどん進んだ。4階は石打棚(階段付きの高台)が四方に設置されている。

大天守5階。心柱は地階から5階の天井まで通されている。西大柱は昭和の大修理で取り替えられたが、その際替わりとなる大檜が運搬中に事故で折れてしまい、3階部分で柱継ぎされている。4階と5階は、内陣・武者走りの区別がなくひとつの広間となっていた。

ついに大天守最上階(6階)に到達。風通しがよくて涼しかったが、観光客でごった返していた。

姫路城の守護神、刑部神社(おさかべじんじゃ、長壁神社)。姫路城が建てられる前から姫山に祀られていた。

東側の眺め。左に見える赤い煉瓦の建物は姫路市立美術館。

南側の眺め。三の丸広場の向こうに、大手前通りが姫路駅までまっすぐ延びている。

西側の眺め。西の丸が一望でき、左側には観光客で一杯の菱の門も見える。

北側の眺め。内堀(見えづらいが道路の内側)をはさんで、手前が姫山公園、奥がシロトピア公園。奥の山は広嶺山。

15分ほど滞在して6階を後にした。

あっという間に1階まで下りてきた。

大天守地階の「流し」。

二重扉を通って大天守から出た。

備前丸の西端から見上げた天守閣。左が乾小天守、真ん中が西小天守、右奥が大天守。

備前丸の北側まで出て、大天守正面を眺める。石垣の高さは14.85mで大天守は31.5m。天守の総重量は、推定5,700トンと言われている。強烈な日差しと照り返しでとても暑かった。

池田輝政が姫路城を築城した時は、備前丸に本丸御殿を建てて住んでいたが、今は何もない。

「備前門」をくぐる。城主の居館があったことから、門扉は鉄板張りで、隠し狭間や槍落がある強固な櫓門。

井郭櫓(いのくるわやぐら)の井戸。

「りの門」へ向かう。ちなみに備前丸石垣を始め、城内の石垣には多数の石棺が使われているとのこと。

りの門を出た上山里丸に、怪談「播州皿屋敷」で有名な「お菊井戸」があった。

上山里丸の周囲を囲む渡櫓の中に、歴代の鯱が三体展示されていた。こちらは明治と昭和の鯱。

平成の鯱。

上山里丸から眺めた大天守。

ぬの門を出たところに見事な石垣。扇の曲線に似ていることから「扇の勾配」と呼ばれ、上にいくほど反り返っている。積石を加工した「打ち込み接(うちこみはぎ)」で、石と石の間に間詰(まづめ)石を寸分のすき間なく詰めて、石垣の強度を高めている。

いの門を再びくぐる。

最初にくぐった菱の門が見えてきた。

暑さもあって疲れていたが、菱の門の右奥の階段を上って、西の丸へ向かった。

西の丸の庭園は手入れが行き届いてた。

西の丸から眺めた天守閣。左から乾小天守、西小天守、大天守。

わの櫓脇から西の丸長局(百間廊下)に入った。ここも靴は備え付けの袋に入れて自分で持ち運ぶ。

百間廊下の内部。名前は百間(約181m)だが、実際の長さは約240mある。

西の丸長局から眺めた大天守。現在天守群が建っているところは姫山と呼ばれる小高い丘の山頂で、西の丸は鷺山(さぎやま)と呼ばれる丘を削って整地したところに建造されている。

長い廊下が延々続く。廊下の右には20以上の小部屋が並んでいる。城に仕えた侍女たちの部屋だろうか。

化粧櫓付近から眺めた天守閣。なんとも立派な城だとつくづく感じ入る。

千姫の為に1618年に増設された、化粧櫓の内部。カルタ遊びをしている人形がある。

西の丸長局を外から撮影。本格的に西の丸を整備したのは本田忠政(徳川四天王・本田忠勝の嫡子)で、鷺山の造成と周囲を取り囲む多門櫓の建造と併せて、嫡子忠刻(ただとき)と千姫(徳川秀忠の子、家康の孫)のための御殿、中書丸も建造した。

千姫は大阪夏の陣で夫・豊臣秀頼と死別した後、本多忠刻と再婚して姫路城で約10年間過ごすが、忠刻とも死別したため、江戸城に入って出家している。波瀾万丈のその人生は、簡単な年譜で読むだけでも面白い。

戦時中、夜間の無差別焼夷弾が大天守を直撃して6階に突き刺さったが、それは不発弾で天守群は焼失をまぬがれたという。刑部大明神のお力だろうか。焼失の可能性だけでもゾッとするが、文字どおり国民の宝である姫路城がいまあることに感謝である。

西の丸長局を見終わる頃にはへとへとになっていた。

西の丸で記念撮影。

空の青と松の緑に彩られた白鷺城。晴れてくれて本当によかった!!

菱の門を抜けて本丸を出た。

三の丸広場の前で再び姫路城を撮影。

南側正面から天守群を眺める。本当に立派な城郭である。

真夏の日差しを受けて、ますます白く輝く姫路城大天守。

名残惜しさと、見終わった充足の中で姫路城を後にした。

13:30 大手門駐車場で駐車代600円を支払って、県立兵庫美術館へ向かった。